当事者の立場から
平成20年9月13日
絆の会20周年記念挨拶
人からもらった優しさ、今度は自分が与えたい
NPO法人ポプラの会  山本 悦夫
  私は、絆の会のメンバーの山本悦夫です。
本日は、絆の会20周年記念、誠におめでとうございます。
  私が、絆の会と関わりを持ったのは、病院を退院するにあたり、行き場が無く、平成6年7月6日に、当時の共同住居、若里アパートに入居させて頂いたのが始まりです。その時からの、お付き合いでもう、14年になるのですね。
私の人生の中で、絆の会の歴史、発展と共に私にとって、大きな成長をさせて頂いたと言う、感謝の気持ちは表しきれません。歳のせいか、今回この14年を振り返ると何故か解りませんが、涙している自分がとても嬉しく感じられます。
いつまでも、感慨にふけっていたいという想いで、部屋から空を眺めながら、筆を執っている今の自分がいるんです。
  私の人生にとって、この病気になった事が、不幸なことではなかったんだと思える事は、大きな、大きな宝物であります。改めて、絆の会に所属し、その歴史、発展の中で大きな節目として、成長させてもらったことが、現在そして未来に向けての原動力の源であると実感しているところです。
 若里アパートの13年間の入居生活の中、それはキャロットハウス(現在就労継続支援B型)への通所するまでの生活と通所してからの生活、りんどう会から絆の会への発展、若里地区への参画、キャロットハウスの新築移転、その他、諸々の行事と出来事への参加、その中でのメンバー同志の温かな交流とスタッフとの係わり、当事者ポプラの会の発足と成長、そして結婚と、様々なことが頭の中で去来しております。
  私は、過去において失ってきた事、失ってきた物、それ以上にこの14年間で得たものの大きさと、自分の成長に驚くばかりです。
心の温かさ、優しさを絆の会の人達、それはメンバーとかスタッフの枠を超えて、支えられての出会いと成長です。
  グループホーム(若里アパート)が先駆的に地域に参画し始めたことは、皆が地区の一員としての自覚。区民との大きな交流の場として、行事への参加、組長の経験、色々と温かく迎えてもらえたことは、私にとっても大きな喜びでした。自分が病気で辛いときには、自分のことしか考えられませんでした。けれども、人とのふれあいを通じて、元気になっていった私がいます。
人の思いやりや優しさで私は自分を見つめなおし、病気から回復することができたのです。薬も大切ですが、人の心の温かさによって、人は救われるということを絆の会の人達との出会いで実感しました。
そして、今度は自分が少しでもその役割が果たせればと思っています。人は自分なりの役割があることで、目的や夢や希望が持てることがあると思います。そんな中で、当事者会を立ち上げようと思い立ちました。 
  私にとって一番大きな出会いと成長は、当事者会、ポプラの会です。今年で5年目に入り半ばです。私達の誰もが思っている事、それは、障害者が地域の中で社会の一員として普通の生活をすること、また自信を持って生きる力の実現のように思います。そして、一人の人間として認められる喜びが有るのです。
更に、私にとっての成長は、去年の5月に結婚したことです。それが、メンバーさん達の励みになればと、これからも、幸せな結婚生活を送りたいと思います。今後ともご指導ご鞭撻の程、宜しくお願いいたします。 
  感謝の気持ちをこめて、これで私の挨拶とさせていただきます。

家族の立場から
絆の会につながって
  皆様、こんにちは。
  これから、私は、息子に関する体験を申しあげます。 共通の悩みをお待ちの方に、少しでも役にたつことがありましたら、幸いでございます。
  長男がうつ病と言われてもう十数年がたちました。はじめはチョッとオカシイと思うくらいでしたが、しばらく、放っておきましたところ、ガリガリに痩せてまいりまして、「夜眠れないーーーー」と訴えて、部屋に閉じこもるようになりました。 そんな時、たまたま知り合いになった方が、息子と全く同じ状態で医者にかかりながら、仕事をしているという話しを聞き、すぐに日赤の精神科の門を叩きました。 しばらくは、診断結果が出ませんでした。本人は、その頃は、「死にたい」と申すようになり、親としては、ただただ困惑してしまい、行く末を案じておりました。  
  三ヶ月後に対人恐怖症と病名がつき、担当の先生からご紹介をいただき、その時から現在の「絆の会」のお世話になることになりました。 その頃は、ゆたか荘と称していて、そこへ毎日通うようになりました。そこでは、箱作りのお手伝いしておりましたが、時間は自由で、気分が悪いときは、行って寝ているだけという随分勝手きままな生活をさせていただいておりました。 それでも、ほとんど休む事も無く、それこそ雨の日も、雪の日も自転車で通っておりました。 丁度其の頃、父が脳梗塞で倒れ、私が付きっ切りで看護するようになり、息子のことは、全て絆の会のスタッフの皆様にお任せという誠に申し訳ない状態になってしまいました。 その後、息子は喫茶りんどうで働かせていただき、やっと何とか就職活動というところまでになりました。 
  今回、この発表をお受けした一番の理由は、「家族会に、もし入っていらっしゃない方がおられるようでしたら、是非入会して下さるようお願いしたい」からであります。
 私も始めは、喫茶で働いている方が次々と就職しているのを見て、「あの方達は別よ、家の子は駄目よ」と思っておりました。
  ところが、父が亡くなり、その年から家族会のお手伝いをさせていただくようになりました。 会の皆様のそれぞれの悩みや困った様子とかに接しながら、皆さんの「次はお宅の番よ」と、はげましをいただきました。 また、スタッフの方々や家族会員の方々と研修会などに出席し、色々な家族の皆さんとの交流の中で、くじけそうになる私を支えていただき、「絆の会の家族会に入っていて、本当に良かった」と痛感いたしました。
  ようやく、息子にも光が見えて来たとはいえ、第二のスタートの始まりでありまして、行き先には、多くの困難や障害が待ちうけております。 今後も、ご支援を賜りたいと存じます。 最後に、絆の会・家族会の益々の発展を願い、終わらせていただきます。
     平成20年9月

ボランティアの立場から
たくましくなったメンバーの成長が嬉しくて
  私は、長野県社会福祉センター1階にあります、社会復帰施設の「喫茶りんどう」でボランティアをしています。開店してから、今年で20年になりました。
喫茶開設の時から、営業はメンバーとボランティアに任され、常時、指導員さんはいないという特色のある作業所です。
今は、スタッフがメンバーの相談や指導、そして、いろいろな面でサポートして下さり、私達は安心して働いています。
  私は平成元年に、知人の紹介でボランティア活動に参加しました。家が近いということも幸いして、生活の一部のように続けてきました。
たくさんのメンバーとの出会いがあり、いろいろなことが思い出されます。
今は、若いメンバーが多いのですが、就職を目標にして、3年で卒業という決まりに一応なっています。
  最初、入られた時は、不安と緊張でいっぱいだったメンバーも、2ヶ月、3ヶ月と日を追う毎に皆の中に自然と溶け込み、仕事にも慣れて、お客さんへの気配りや応対など自信をもって接客するようにどんどん変わっていかれます。
ボランティアは、メンバーが安心してその人らしく働くためのお手伝いですし、メンバーからもいっぱいの優しさと元気をもらっています。
3年の間、多くの人と触れ合い、働き、いろいろな経験を通して、たくましくなったメンバーの成長は、私達にとってもとても嬉しいのです。
 その反面、仕事仲間として大変な時は皆で力を合わせて頑張ったり、行事に参加して楽しんだりと、楽しく働いていただけに、メンバーの卒業は寂しさもあります。
喫茶はお客様相手なだけに、ボランティアといえ責任もありますし、長く続けることはそれなりに大変な時もありました。
精神保健福祉ボランティアとして、病気のことや福祉のことなど学べる場や、機会を頂けたことも大切なことだったと思います。
  喫茶には40人程のボランティアがおります。30代から80代までと年齢層も幅広く、若々しく前向きに年を重ねているお仲間にも恵まれました。
家庭環境も、その時々の事情も1人1人違います。ボランティア同士あまり無理はしないで、出来るところを出来る人がやりましょう、と、お互いに助け合い、支え合い、楽しみながら活動しています。
心の通い合うあたたかな付き合いとメンバーが安心して生き生きと働いている、そんな喜びがあったから、今まで続けてこれたかなと思います。
喫茶は、ホッとできる居心地の良い場、癒され、元気をもらえる、そんな所なのでしょうか。
  現在、絆の会の他の作業所でも、たくさんのボランティアが活動しています。これからも、ボランティアの輪を広げ、お互いに交流しながら、地域に根付いたボランティア活動を元気に続けていきたいと、願っています。              (渡辺久代)

職員の立場から
話合い、思いをぶつけ合い、そして前に進もう
  みなさんこんにちは。私はグループホームの職員をしております根石とし子と申します。
  私がこの会に入りましたのは、平成8年4月。今年で12年目を迎えます。力のない私ですが、絆の会20年の歴史の中で12年間、会の活動のお手伝いをすることができ、心からうれしく思っています。 
  私が入った頃は「りんどう会」と言っておりました。精神保健ボランティア講座を受講した、心ある方々と当事者のご家族が、関係機関の応援を得てみんなで立ち上げた会だとお聞きしています。グループホームとして長野県下で2番目に開設した清水アパートは、皆さんが手弁当で大工仕事に入り屋敷を整備し、入居者が決まると、軌道に乗るまで夜間の支援に入ってくださったとのことです。 
年を経るごとに働く場である作業所が、住む場であるグループホームが少しずつ増え、そして私たち職員が働く環境もしだいに整ってきました。
  しかし、20年の歴史の中、今日に至るまでにはいろいろなことがありました。大きな「時」の流れに巻き込まれ、私たち「会」が大切にしてきたものを、見失いそうになったこともありました。その時は見失いつつあることすら気づきませんでした。「このままでいいのか・・」と気づかせてくれたのは利用者のご家族の方でした。 
私たちは何度も話し合いを重ねました。互いの思いがぶつかってイヤな思いもしました。時には大きな声でやり合う場面もありました。どうしたら利用者の方、ご家族、ボランティアさん、職員、みんなが連携し気持ちよく前に進むことができるのか・・真剣に考えました。
  平成16年6月、法人の道を選び、会の名称も「りんどう会」から「絆の会」と改め、再出発をしました。ボランティアさんのご好意で、「会」の拠点である事務局をきちんと構えることもできました。私たち職員は利用者の方、ご家族、ボランティアさん、皆さんのご協力で今日までくることができました。 
社会の制度もどんどん変わってきています。私たちも日々の雑多な仕事に追われがちですが、利用者の方へのよりよい支援をするために、ご本人との話し合いを大切にし、ご家族や各施設との連携はもとより、職員の質の向上をめざし、日々学ぶ姿勢を忘れずにいたいと思っています。
  また皆さんから、お気づきのことがありましたら、何なりとご意見をいただき、検討し、より一層皆さんとの「絆」を深めていきたいと思います。これからもさらにご指導、ご協力どうぞよろしくお願い致します。

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